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| イタリア人にとっての「美しさ」とは イタリア人の美的感覚はなかなかのものである。最初に住んだところは、喫茶店が一軒しかないのどかな田舎町だったけれど、数すくない洋品店のショーウィンドウの見事なことといったらなかった。斬新に生地をまとったマネキンと、小物を充分につかった空間。それだけでミラノコレクションの世界だった。ヴェネチアの繁華街ともなれば、いうに及ばず、である。ガラス製品や貴金属など、それだけで美しいものはさておき、かばんや靴や帽子など一見地味めの商品も、照明を利用して渋く上品に陳列されている。こんなウィンドウを見ながら散歩している人たち。さぞ目が肥えることだろう。 実際かれらはおしゃれである。が、おしゃれの感覚がまた日本人とは違う。女性なら、持っている美しいものを惜しみなく発揮するようなものをまとうべき。きれいな脚線があったら、おおいに見せるべし。豊満な胸があれば、おおいに強調すべし。お尻だって多少大きくとも女性らしさのあらわれ。隠すことなんてないのである。かくしてイタリア人の女性はジ-パンをはいていても女っぽさを失うことはない。食べるわりには太らない、と日本の友人たちをうらやませたわたしだったが、ここでは痩せていることなんて価値はない。なぜなら痩せた女性は「女らしく」ないからである。大きなお世話だ。が、正直言って息苦しいこともある。女性ならすべからくその特有の美を追求しなさい、といわれているような圧力を感じるからだ。 イタリアの男たちはどうか。髪のうすいおじさんだって、おなかのでっぱったおじさんだって、男であることの誇りを忘れない。歩き方が自信たっぷりだ。イタリア男ならば、だれだって自分をまんざら捨てたものではないと考えている、と断言してもいい。このうぬぼれはどこからくるのか。「ほんとにハンサムねぇ。」と母親や親戚のおばさんからちやほやされて育つ環境のたまものではなかろうか。ハンサムだといわれつづけたら、誰だってそう思い込む。たとえ十人並みだとしても、目の色がグリーンだというだけで自慢になるし、真っ白な歯並びだって笑顔を容易にする。自分の容姿に関して卑屈になっていない、というのは見ていて気持ちがいいものである。 美しさということばに敏感に反応する人たち。建物だって街だって美しくなければいけない。フェラーリだって走る美である。不思議なのは、イタリア人がなぜ国鉄の醜い電車に平気でいられるのか、ということである。車種がごちゃまぜ、車体はぼろぼろ。イタリア人に聞いてみた。「なんで美しくなきゃいけないのさ。運びさえすればいいんだ。」が、すぐさま、「ちゃんと運んでるとはいえないけどな。」イタリア国鉄といえば、遅れる、ストばっかり、汚い、と評判はさんざんである。美しくある前になすべきことは多そうだ。
小池 弘美
2001年xx月 |